池田和泉さんのSTORY 「今日も、生きてるじゃん」。「不安」を「覚悟」に変えた一歩

夫は一緒に病気と闘う戦友のような存在
夫が脳出血を起こしたのは、2000年。本人が47歳、私が42歳のときです。会議の途中で頭痛がしたと早退してきたので、病院に連れていきました。先生は「風邪だろう」って言ったけれど、その2日後に私が買い物から戻ると、トイレ中に失禁していたんです。これはおかしいと、すぐに救急車を呼びました。仕事の忙しさに加えて、お酒、タバコが原因だったんでしょう。血管年齢は70代だと言われました。
仕事には戻れないかなと思ったけれど、夫は本当に会社に恵まれました。役員の方には「お給料はいまの役職のままです。安心して生活して下さい」と言っていただき、私も「必ず復帰させます」と宣言しました。
結局半年間休んで職場復帰できたんですが、会社の人たちも戸惑っていたそうです。例えば、考えていることと違うことを言っちゃうんですね。「千」と言わないといけないのを「万」って言うとか。本人も自分でおかしいとわかっていて、昼休みに「どうしていいのかわからない」って電話がかかってくることもありました。「いいよ。もう帰っておいでよ」って。
私のがんがわかるまで20年弱、ずっと生活の中心は夫の介護でした。当時は視野狭窄もあって、自転車は乗れないし、車の運転もできない、文字も読めない。どこへ行くにもずっと一緒にいないといけません。
ただ、私にとってはもっと辛いことがあった。夫が60歳手前のとき、てんかんの発作が出るようなったんです。定年前になって、再雇用してもらえるのかという不安がストレスになったんだと思います。
脳が興奮状態になって、夜眠れなかったり、ずっと同じことを話したり。それだけならまだいいんですが、金遣いが荒くなって1日に何十万円も使う。私に暴力を振るって警察に来てもらったこともあります。
一時期は私もうつ状態になるほどでしたが、幸いにも夫にうまく合う薬があり、いまは穏やかです。幸せなことに再雇用もしてもらえて、65歳まで勤め上げました。
私の入院中、夫はよく頑張ったなと思います。それまで家事を一切させていませんでしたから、電子レンジの使い方からマンションの入口の開け方、お風呂の入れ方、洗濯機の回し方まで全部教えました。「1、2、3、4」って順番を書いたメモを貼って。
洗濯機の「すすぎ」の文字も読めない人が、私の服を洗濯して、病院に持っていって、また持って帰って洗う。自分の食事を準備して、お風呂に入る。私が2回目の手術から帰ってきた後には、疲れがドッと出たんでしょう。大風邪をひいて倒れちゃって、救急外来に運ばれました。
そのとき感じたのは、「かわいそうに。頑張りすぎたんだな、きつかったんだろうな」っていうこと。「しっかりしてくれよ」とは思いませんでした。
夫の介護のためにどれだけの苦労をしたか、DVを受けてどんなに辛い思いをしたか、自分の病気を抱えながらどう夫に向き合ったか。感情の処理はまだできていませんが、いまでは愛情というよりも戦友のような感覚です。夫は病気、私だって病気。病気は違うけれど、病人同士。これからも一緒に戦っていきます。