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谷田孝子さんのSTORY 10年後の卒業証書。病気を通して知った、過去の自分、本当の自分

「息子の高校卒業までは生かしてください」

病気がわかったのは、42歳のときです。長女が中学受験に合格して、その手続きをした日の夜。これからのことを考えながら横になったときに、ふと左胸のしこりに気づきました。

私はその前の年まで19年間、がん保険の給付担当として働いていました。病気についての知識もあるから、すぐにがんだとわかります。夜中に何回も目が覚めて、「あれは夢だったのかも」と触ってみても、やっぱり夢じゃない。

振り返ってみれば、しこりはずっと以前からあったんです。授乳期に乳腺が石灰化したものだと思っていたけれど、考えてみれば授乳が終わってから何年も経っています。それまでずっとお客様とがんについて話していたのに、自分と結び付けられていませんでした。

ただ、動揺しながらも、瞬間的にこれから先のことを考えていました。今日から3連休だから、3日後に病院に行って、紹介状を書いてもらって、大きな病院に行って検査を受ける。入院して手術、抗がん剤治療までがこれくらいの期間。冷静に受け止めていたわけではなくて、仕事の経験からわかるんですね。「私は大丈夫。プロなんだから動揺しちゃいけない」って自分に言い聞かせました。

うちは夫と長女、次女、長男の5人家族で、当時、子供たちは上から小学校6年生,4年生、1年生。次の日、みんなで遊びに行っても病気のことが気になって笑顔になれず、子供たちは「どうしたの?」と不思議そうでした。やっぱり不安が表情に出ていたんだと思います。

 

連休明けに近所の病院でマンモグラフィを撮ってもらって、すぐに大きな病院に行きました。詳しく検査をすると、がんは腋窩(脇)、鎖骨下、内胸のリンパ節にも転移していました。手術をしてから予防的に抗がん剤治療をするのだと思っていましたが、逆の順番に。これは想定外でした。まず抗がん剤でがんを小さくし、乳房全摘術後、転移巣に放射線治療が必要でした。

診断を聞いて、真っ先に考えたのが「あと何年生きられるだろう」ということ。息子が大学を出て就職するまで、15年。それはさすがに高望みだろう。でも、5年では短い。だから10年。「神様、これ以上転移しないように、頑張ります。多くは望みません。せめて息子の高校卒業までは生かしてください」ってお願いしました。

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